第4問 考えるとは
硬派な話題が続きますがご容赦ください。(自分の考えを整理するために書き起こしております故)
考えるとはどういうことなのだろうか
何かを意識することは考えることなのだろうか
だとすれば、意識をしないこと、もっと言うならば無視をすることは考えないことなのか
しかしそうすると、考えないように(即ち意識しないように)と頭の中で意識してしまうので考えることではないのか
いたちごっこになりそうなのでこのあたりでやめておきたい
ではもし考えることをしなければどうなるのだろうか
その答えを見つけるためにもいま私は思索を巡らせている
明日は何をしようか 何を食べようか 他愛のないことから将来どうなるのだろうということまで、その思考は多岐に亘る……
どうやら議論が迷子になってきたのでこのあたりで終わりにしようと思う
こういう答えのないような問を語り合えるような友人がほしいものだ
「雨は穏やかな曲を奏でていた」
第3問 学ぶとは
私は教育業界や教育に関連する出版社を志望している。(現在就職活動に勤しんでいる)
このような業界を志す人に大抵聞かれるのが、学ぶことの意義や勉強することとはどういうことなのか、ということである。
私も随分とこの問いには苦労していて、これを聞かれると厄介なこと聞いてくるなと内心思う。
私自身の考えは以下の通りだ。
①学ぶことは自身をよく知ること
②学ぶことは自身の可能性を広げること
③学ぶことで無知の知を自覚できる
①について
ぼくは勉強が嫌いだとか勉強が苦手だって言って、学ぶことを拒む人はたくさんいる。(やるとしても英語で言うwilling toのような形でいやいややる人が多い)
そしてひとたび手をつけても、やはり自分には向いてないと言って諦めてしまう人もいる。
ただ私はそういうのも一つの答えなのではないかと思う。換言するならば、自分自身が勉強が苦手なんだと認識することが出来るのだ。(認識と知っているはレベルが違うように思う)
思い込みとして知っていることと実際にやった結果として理解してることには雲泥の差がある。そしてこれはやってみないと知ることができない。
学びとは自身の特性を知ることが出来る最良の機会であると考える。
②について
私は国語や英語が比較的得意な一方で、理科や数学と言った理系科目はさっぱりである、とある時までは思っていたが、大学に入り(教養科目の範疇で)学んでみると実は食わず嫌いをしていたことに気付かされた。高校生の頃或いは浪人生の頃にもっと勉強していれば、違う道にも進めたのかもしれないと後悔することもある。
ただ勉学の道に終わりがないのと同様いつから始めたとしても遅すぎることはないように思う。その意味で学ぶことで初めて自分のまだ見ぬ可能性を知りそして広げることができると考える。
最後に③だが、
遥かなる学びの道に足を踏み入れると、世界の雄大さとともにまだその世界のほんのひと握りさえも理解出来てないことに気付かされる。そしてそれこそが学ぶことの醍醐味であると思う。いくら学んでも学んでもまだ知らないことが山ほどある、そんなことに幸せを感じることが出来る。
教育が出来ることは確かに限界があるのだろう、ただ教育業界を志す人間として思うのは、VUCAワールドにおいて決して知識の授受だけに終止するような授業や書籍は必要ないということだ。
興味を知識に、知識を知恵に、知恵を教養に昇華させることが出来るのが教育である。結果ではなく思考の過程に重きを置く、それこそがこれからの教育業界に課せられた使命であると考える。
あくまでも私の意見ですのであしからず。
第2問 言の葉
私は大学生であるが、実は物書きでもある
大学2年の冬から3年の夏にかけて、短編(と言っても原稿用紙270枚くらいだが)を書いた
物を書くというのはなかなか難しい行為で、例えば映像や音楽などが文字に加わればその情景を描くのにそう苦労しない
しかし言葉だけだとどうだろう 当然のことながら、情報は文字テクストだけなので文字に全力を尽くさないといけない
正確に伝えるのはもちろんのこと、そこに重層性を色彩を持たせないと上手に伝わらない
言葉とはとても脆く、口に出した途端(もっと言えば文字テクストに音声という属性を付け加えたその時から)言葉は失われてく
その美しさや儚さ、或いは幽玄さに気づくのは実際に言葉について、深く考え始めてたからであった
好きな人に思いを伝えるときもそう
友だちに何かを言うときもそう
知らない人の前で発表をするときもそう
いつも私たちは言葉と生きている
そのある種異質さを認識すると、どうだろう
普段はなんともないような言葉もおもしろく感じるかもしれない
第1問 生きるとは
ここからが本格投稿です
ずいぶんと大層なタイトルになりましたが、なんてことはないようなことです
人間は自分がいる生きているんだという実感をいつ感じるのでしょうか
ご飯を食べている時 何かを考えている時、、、
例を挙げたらキリがないでしょう
或いは死ぬ直前になって生きていたということを実感できるのでしょうか
往々にして人間は社会的動物であると言われてます その仮説に従うなら誰かに認められた時(これは功績などを称えられたということよりは、むしろ存在そのものを認知してもらえたという意味です(換言するならばより低次元的な認知の段階))生きていると実感できるのでしょうか
そう考えるならば、自分ではない誰かがいないと生きているということが分からないのでしょうか
心臓の鼓動はするけども、それだけでは生きているとは言えないように思います
そんなとりとめのないことを考えると、思考が止まらなくなるのでこのあたりで
ぼくに考えて欲しいテーマとか御座いましたらお気軽にどうぞ、どんなものでも真剣に考えます
第0問 これから
こんばんは
このブログでは、心にうつりゆくよしなしごとを書きつけるものです
しがない大学生のつぶやきです 適当に更新していきますので、どうぞ宜しくお願いします