第17問 羅針盤

端的に言うと、将来のことで悩んでいる。

就職活動が思うようにいかないってのもあるが、それ以上に将来の自分の青写真が全くもって描けない。

 

今はとにかく悩んで悩み抜く時期だと思っている。肩の力を抜いて悩むことさえも楽しめるくらいの気持ちでいたい。

第16問 愛するということ

「愛するということ」とはどのようなことなのだろう。

昔までは何となく分かったような気になっていたことなのだが、最近になって定義付けが難しいということに気が付いた。

 

ある人を好きになる。これも愛するだろう。

ある人を誰かに取られたくない。これも愛するだろう(ただし極端な妬み嫉みは御法度)。

ある人の嫌なことまでも認める。これも愛するだろう。

こんなことを考えていたら、余計分からなくなってきた。

 

愛とは数学や物理学とは違って、決まった形に定義することは出来ない。そこには文学のような解釈の余地が与えられたような甘美なものであるとも考えられる。だとするならば、定義付けることも無粋に感じる。

きっと決められないから美しい、一つに定まらないから魅惑的なのだろう。

 

愛はなくても生きていける、けど愛があればもっと豊かに生きていける(これは昔、私がやっていたゲームに出てくる科白の一つである)。

 

また新たな愛を作り上げていくのも一興だろう。また新たな恋を知るのにも悪くない時期だ。梅雨という時期ではあるが、雨は愛しい誰かと過ごすのにうってつけな気候である。

優しい雨は2人を包み込んでくれるから。

 

Since 6.1〜

 

 

「2人の新たな門出を祝うかのように穏やかに雨は降っていた。雲の向こうには天弓が笑っていた。」

 

 

第15問 本当にやりたいこと

就職活動をしていて思ったことはいくつかあるが、一番大きな気付きは「大卒の肩書きを得てそのまますぐに就職するべきなのか」ということである。

 

ゴールデンウィークにある人に会ったことを契機に、その考えは少しづつ大きく私の頭の中でその存在を主張するようになった。

大学の友人に話したところ、挑戦するだけの価値はあるのではないか、と背中を押してもらえた。

きっと私は誰かに励ましてもらいたかっただけなのだろう。

 

私はチャンスというものは自分で作りだすものだと信じてるし、一度逃してしまったチャンスはそこまでで二度とは巡ってこないと確信している。果報は寝て待てというのかもしれないが、私には寝てる時間も待ってる時間も惜しい。

そういうことから、うまくチャンスを活かせなかったら、きっとそれまでの関係にしかなり得なかったのだと考える。それ故、人間関係というのもあまり広がらない。広がっても長続きはしない(いやむしろ、その中でも長続きしている少数の人たちが友達ではなく友なのかもしれない)。

 

読者諸氏におかれても同じで、やりたいと思うことがあるのならば何振り構わずやるべきだと、私は思う。

 

同じチャンスは二度とは巡ってこないから。

 

「気が付くと、朝から降り続いていた雨はもう止んでいた。ぐんぐんと上昇するその気温は、これから始まる夏を表していたのかもしれない。」

第14問 すききらい

読者諸氏は人を好きになる(ないしなった)経験はあるだろうか。

恐らく、好きの定義にもよるが多かれ少なかれあるだろう。

 

では、誰かを嫌いになったことはあるだろうか。若しかしたらこちらの方が経験が多いという人もいるかもしれない。かく言う私もこちらの立場の人間だ。

 

人を好きになるのにかかる時間と、嫌いになるのにかかる時間どちらがより短いのだろうか。

前者と答えた方は幸せな人なのかもしれない。

後者と答えた方(私を含めて)は残念ながらまだ幸せでないのかもしれない。

こういう問を考える際に一番重要なポイントはそれぞれの経験の多さであると思う。従って好きと答えた人は、人を好きになった経験が嫌いになるより多い。逆もまた然り。

 

今、私はある人物に対して違和感から嫌悪という感情を抱いてる。最初はあれ?くらいにしか感じてなかったが、知らないうちにそれが積み重なっていくと、もう止まらない。一度走り出したマイナスの感情は加速度的に速くなりそして止まることを知らなくなる。

 

兎角、人の世は住みにくい。仲のいい人とだけつるんでいたいが、それもなかなか難しい。

結局は自分がオトナになるしかないのだろうか。

もっと辛抱強い人間になりたいものだ。

 

「風に乗ってたなびく雲はどこがよそよそしく、その場にとどまることを知らないようだ。西の空はどんよりと暗くなり始めていた。」

第13問 後悔

皆さんは、自分の人生の中で後悔したことはあるだろうか。

 

私は後悔だらけの人間である。

元々の夢を諦めた時の後悔は今でもずっとしているし、そんな大層なレベルの後悔じゃなくても、例えば昨日の夕飯違うもの食べればよかったな…みたいな他愛のないようなものもある。

とにかく後悔している時間が長いのだ。

 

後悔には幾つかパタンがあると思う。

1つめは、「やるべき事をやらずして思うようにいかなったことへの後悔」である。

あの時もう少し勉強しておけば、練習しておけば、想いを伝えていれば…といった自分を責めてしまうパタンである。

2つめは、「やるべき事をやったが、思うようにいかなかったことへの後悔」である。

この場合は、自己の判断を責めることが多い。あっちにしとけば良かったとか、こんなことになるならやらなければよかったみたいな。(勿論前者の後悔も〇〇することをしないという判断をしたので、それを悔いてるわけであるが)

 

前者と後者の違いは何だろうか。それは-具体性の違い-だと私は考える。

前者の場合は具体的にこれをやっておけばと悔いる、一方後者の場合は自分の選んだ選択肢以外のことをやれば良いという、至極抽象的な後悔である。

当然のことながら、具体性に富んだ後悔の方が悔しい思いは強い。なぜなら何をすべきだったかということが自分で反省できるからだ。

 

平たく言えば、やらない後悔よりもやった後悔の方が悔いのレベルが小さいということである。

失敗することを厭わずに、果敢に挑戦していきたいものだ。

 

 「少年の双眸からはまた滴るものがあった。けれどもその眼はしっかりと明日を捉えていた。」

第12問 覚悟と誇り

私は今何を目標に生きているのだろうか。

当座の目標は、就職活動を円満に終えることであるが、日々それに追われてその先の未来が見えなくなっている気がする。

 

小さい頃、私は音楽大学に行きたいと考えていた、その後は医師に検事にと色々と夢は変わりながらも、夢がある時は頑張る方向が明確で毎日がキラキラしていたように思う。

 

夢を持つということはそれの実現に伴う痛みを負う覚悟を持つことであると考えている。

スポーツ選手でも芸術家でも医師でも検事でも、どんなものでも夢を叶えるためには苦難の超克が必要である。

だからこそ夢を持つ人は美しいしかっこいいと私は思う。

 

話を元に戻そう。

今私は夢を持つことが出来ない、それは日々を生きるのに精一杯だから。心に余裕が出来て、ふと立ち止まることが出来た時、明日を未来をどのように生きていきたいか、それが見えた時夢はまた生まれるだろうし、どんな夢であれ夢を持つことを誇りに思える日をもう1度取り戻したい。

 

「風はそよそよと、ただ確かにその存在を知らしめるかのように吹いていた。」